作者 生没年 |
小畠鼎子 1898(明治31)-1964(昭和39) |
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制作年 | 1937(昭和12)年 |
サイズ | 縦155cm×横270cm |
技法・素材 | 紙本着色 |
解説 | 小畠鼎子(1898-1964)は川端龍子に師事し、龍子が日本美術院を脱退して青龍社を結成するとそれに従い、青龍社を主な活動の場として制作を行った日本画家です。夫の油彩画家・小畠辰之助とともに吉祥寺に居住し、自宅の植物や井の頭公園の鳥など、身近な題材を描きながら、大胆な構図と豊かな色彩表現を用いた花鳥画を多く遺しています。孔雀と芍薬を画面いっぱいに描いた華やかな初期の頃の作品です。 川端龍子(1885-1966)が率いた青龍社は、当時日本画の主流であった先生巧緻ないわゆる「床の間芸術」に対して、芸術の大衆化を見据えた力強い大作主義の「会場芸術」を掲げ、情熱的で躍動感ある日本画を目指しました。鼎子は第1回の入選以降、35年間にわたって青龍社展に出品。1924年に社人に推されて以降は中心的メンバーの一人として地道に制作を続けました。当時、女性画家が閨秀画家と呼ばれ封建的な体質が残る社会の中で、画家として、妻として、母として、時には子どもをおぶって研究会に出席していたといいます。鼎子が歿した2年後には師の川端龍子も死去し、青龍社も解散。まさに青龍社とともに歩んだ画業でした。 |
所蔵美術館 | 武蔵野市立吉祥寺美術館 |